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東京地方裁判所 昭和48年(ワ)2780号 判決

原告(兼亡酒井貴美恵訴訟承継人)

酒井平八

原告(右同)

酒井望

右両名訴訟代理人弁護士

中村護

外七名

被告

右代表者法務大臣

稲葉修

右指定代理人

押切瞳

外四名

被告

大月市

右代表者市長

志村寛

右訴訟代理人弁護士

新野慶次郎

外一名

被告

黒田政喜

右訴訟代理人弁護士

新野慶次郎

外三名

主文

一  被告大月市は、原告らそれぞれに対し、各金七九二万二五〇〇円とこれに対する昭和四四年一二月七日から支払ずみまで年五分の割合による金員の支払をせよ。

二  原告らの被告大月市に対するその余の請求と、被告国、同黒田政喜に対する請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、原告らと被告大月市との間に生じた分はこれを二分し、その一を原告らの負担とし、その余を被告大月市の負担とし、原告らと被告国、同黒田政喜との間に生じた分は全部原告らの負担とする。

四  この判決は原告ら勝訴部分に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一、原告ら

1  被告らは各自、原告らそれぞれに対し、各金二五〇〇万円とこれに対する昭和四四年一二月七日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二、被告ら

1  原告らの請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

3  仮に被告国が敗訴し、仮執行宣言を付される場合には、担保を条件とする仮執行免脱宣言(被告国の申立)

第二  当事者の主張

一、原告らの請求原因

1  当事者

原告酒井平八は、亡酒井貴美恵(以下単に貴美恵という)の父であり、原告酒井望は、貴美恵の母である。貴美恵は、昭和四四年四月八日に出生し、同五一年二月二六日に死亡した。

被告国は、予防接種法に基づく予防接種の事務を行い、同大月市は、右事務の委任を受けこれを実施する者であり、同黒田政喜(以下被告黒田医師という)は、本件予防接種を行つた医師である。

2  本件事故

貴美恵は、昭和四四年一二月五日午後三時頃、山梨県大月市所在下和田小学校において、被告黒田医師からインフルエンザの予防注射を受けた。貴美恵は、二日後の同月七日、急に発熱、けいれん、ひきつけ等を起こし、同被告の診察を受け、消化不良と診断された。貴美恵は、翌八日、訴外堀田鈴子鈴師の診断により、インフルエンザ注射液の毒性による脳性麻痺の疑いがあるとされ、同医師の指示により、翌九日、大月市民病院に入院、六日後の同月一五日、同病院から東京医大附属病院に入院し、その間発熱状態が続き、また度々けいれんを起こした。貴美恵は、同月二七日、右附属病院を退院したが、脳性麻痺の疾患に侵され、依然としてけいれん、ひきつけが治らず、本件予防注射前は満八ケ月の健康な発育状態にあつたのに、約二ケ月に相当する発育の退行現象が生じ、その後身体の発育は若干回復したものの、なお右半身不随で歩行が困難であり、知能の発達は停止し、事物の認識、飲食の意欲、排泄の始末等全く不能で、回復の見込みのない状態のまま、昭和五一年二月二六日に死亡した。

3  因果関係

貴美恵の右脳性麻痺の疾患及び死亡は、上記インフルエンザ予防接種に起因する。

4  責任

(一) 被告黒田医師

(1) インフルエンザの予防接種においては、発育段階に応じて注射液であるワクチンの安全な規定量が定められており、規定量以上を注射した場合にはなんらかの副作用が予想されるものであるから、右予防注射を行う医師としては、注射の際に発育年令を確認し、右安全な規定量を注射すべきであるのに、被告黒田医師は、当時満八ケ月の幼児である貫美恵に対し漫然と規定量以上の注射を行つた上、注射の後、貴美恵が満八ケ月の幼児であることに気づいたのであるから、適切な事後措置をとるべきであつたのに、なんらの措置をとることもなく貴美恵を帰宅せしめた過失がある。

(2) 被告黒田医師は、右注射の二日後、貴美恵が発熱、けいれん、ひきつけの症状を呈して診察を求めてきた際、右症状がインフルエンザ予防注射に起因するものと予想することができた筈であるにもかかわらず、これに対し鎮痙剤や大量のリンゲル注射をするなど症状に応じた治療をするとともに、速やかに医療設備の整つた大病院の診療を受けさせる等の適切な措置をとらず、漫然放置した過失がある。

(二) 被告大月市

(1) 被告大月市は、被告国のインフルエンザ予防接種特別対策に基づいて、同市の医師会を通じ被告黒田医師に委嘱して、本件予防接種を実施したものであるから、国家賠償法一条一項による責任がある。

(2) 本件事故は、被告大月市の被用者に当る被告黒田医師が被告大月市の業務の執行として本件予防接種を実施するについての過失に因つて生じたものであるから、被告大月市は民法七一五条一項による責任がある。

(三) 被告国

(1) 本件予防接種は、予防接種法に基づくものであつて、被告国が同大月市に事務委任して行つたものであるから、被告国は国家賠償法一条一項による責任がある。

(2) 仮りに、本件予防接種が、予防接種法に基づく被告国の事務として行われたものでないとしても、これは厚生省衛生局の所掌事務の遂行として行政指導によつて、被告国の事実上の強制の下に行われたものであるから、被告国は、民法七一九条二項の類推適用により、被告大月市と共同して国家賠償法一条一項による責任を負う。

(3) 本件事故は、被告国の被用者に当る被告黒田医師が被告国の事務の執行として、又は少くとも外形上被告国の事務に属する業務の執行として、本件予防接種を実施するについての過失に因り生じたものであるから、被告国は民法七一五条一項による損害賠償責任を負う。

5  損害

(一) 財産的損害

貴美恵について次のとおりである。

(1) 治療費、治療に伴う経費

金一〇万円

(2) 付添費用(一日当り五〇〇〇円で六年分) 金一〇八〇万円

(3) 逸失利益(満一八才から六五才までの収入を一ケ月金五万円の割合で計算し、これより生活費として五〇パーセントを控除したものに、ホフマン式による中間利息控除をしたもの)

金七一四万九六〇〇円

(二) 精神的損害

貴美恵について金二〇〇〇万円、原告らについてそれぞれ金一〇〇〇万円が相当である。

(三) 相続

貴美恵の相続人である原告らは、以上の損害のうち貴美恵の損害金三八〇四万九六〇〇円の損害賠償請求権を均分に相続した。

(四) 弁護士費用

原告らは、原告ら訴訟代理人弁護士中村護に、本件弁護士費用として、各自金二九〇万円を支払う旨約束した。

6  結論

よつて、原告らは、被告黒田医師に対し不法行為による損害賠償請求として、また被告国、同大月市に対し国家賠償法一条一項による損害賠償又は民法七一五条一項による損害賠償請求として、各右損害金三一九二万四八〇〇円の内、それぞれ金二五〇〇万円の支払いと、本件不法行為後である昭和四四年一二月七日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二、請求原因に対する認否

1  被告黒田医師

請求原因1の事実は認める。同2の事実のうち、貴美恵が昭和四四年一二月七日急に発熱、けいれん、ひきつけ等を起こしたことは不知、被告黒田医師が貴美恵を消化不良と診断したこと、訴外堀田医師が貴美恵にインフルエンザ注射液の毒性による脳性麻痺の疑いがあると診断したことは否認し、その余の事実は認める。同3の事実は否認する。同4(一)の事実のうち、インフルエンザの予防接種においては注射激の規定量が定められており、予防注射を行う医師としては発育年令を確認のうえ安全な規定量を注射すべきことは認め、その余の事実はすべて否認する。同5の事実のうち、原告らが貴美恵の相続人であることは認め、その余は不知。

被告黒田医師は貴美恵に対し、インフルエンザワクチンを規定量である0.1CC注射したもので、ワクチンの量を誤つたことはない。

2  被告大月市

請求原因1の事実は認める。同2の事実は、被告黒田医師が貴美恵を消化不良と診断した事実を除いて認める。同3の事実は否認する。同4(一)の事実のうち、注射液の規定量が定められていること、予防注射を行う医師は、対象者の年令を確認し安全な規定量を注射すべきことは認め、その余の事実は否認する。同4(二)の(1)の事実は被告大月市に責任があるとの主張を除き認めるが、(2)の事実は否認する。同5の事実のうち相続の事実に認め、その余は不知。

3  被告国

請求原因1の事実は認める。同2の事実のうち貴美恵が原告主張のように予防注射を受けたこと、貴美恵が死亡したことは認める。同4(三)の(1)は否認する。(2)の事実中本件予防接種が厚生省衛生局の所掌事務の遂行として被告国の行政指導によつて行われたものであることは認めるが、その余の事実及び(3)の事実は否認する。同5の事実のうち相続の事実は認め、その余の事実は不知。

本件予防接種は被告国の事務として実施されたものではなく、被告大月市の固有の事務として行われたものであるから、いずれにしても被告国は原告らに対する損害賠償責任を負わない。

三、抗弁

1  被告黒田医師

本件予防接種は、被告国のインフルエンザ予防特別対策事業の一環としてなされたもので、被告国の事務であり、被告黒田医師は、被告大月市の委嘱を受け公務員として、本件接種にあたつたのであるから、仮りに被告黒田医師に過失が認められるとしても、本件接種による損害賠償には国家賠償法が適用され、公権力の行使に当る公務員たる被告黒田医師は、被害者に対する直接の損害賠償責任を負わない。

2  被告大月市、同国

被告大月市は、昭和四八年三月三〇日、原告酒井平八に対し、本件事故に関し、国の予防接種事故に対する措置運営要領に基づき、金二七〇万円を支弁した。

四、抗弁に対する認否

抗弁1の事実関係は認めるが、法律効果は争う。抗弁2の事実中金二七〇万円受領の点は認める。但し、右金員は貴美恵が被告大月市を通じて被告国から予防接種事故による重症者補償として交付を受けたものである。

第三  証拠〈省略〉

理由

一本件事故の発生

酒井貴美恵が、昭和四四年一二月五日午後三時頃、山梨県大月市所在下和田小学校において、被告黒田医師からインフルエンザの予防注射を受けたことは、当事者間に争いがない。又、右貴美恵は、右予防注射の頃満八ケ月の乳児で健康な発育状態にあつたところ、右注射後日を経ずして脳性麻痺の症状を呈し、同月二七日病院を退院後も約二ケ月に相当する発育の退行現象が生じ、その後、身体の発育は若干回復したものの、けいれん・ひきつけがやまず、右半身不随で歩行が困難となり、知能の発達が停止し、事物の認識、飲食の意欲、排泄の始末等が不能で回復の見込みのないまま、昭和五一年二月二六日に死亡したことは、原告と被告黒田医師、同大月市との間では争いがなく、又、被告国は右事実を明らかに争わないのでこれを認めたものとみなす。

二因果関係

そこで、右予防注射と、貴美恵の脳性麻痺の症状ないし死亡との間に、因果関係が存するか否かについて判断する。

1  〈証拠〉を総合すると、貴美恵は、昭和四四年一二月五日当時、本件予防注射を受ける前には体重九キログラム位の健康体であつたが、本件予防注射を受けて帰宅後、同日夜から若干の発熱を生じ、泣くばかりで食物等をほとんど受けつけない状態となり、二日後の七日の朝、突然けいれんを起こしたため、同日午前中、被告黒田医師の診断を受けたところ、摂氏38.8度の発熱が見られ咽頭付近に多少の炎症を起こしていたため感冒と診断された。しかし同日午後に至り、再び激しいけいれんの発作を起こしたので、同日夕刻再度被告黒田医師の診察を受けたところ、摂氏三九度の高熱があり、消化不良便を排泄し、更に翌八日になつても右発作が静まらないため、かかりつけの訴外堀田鈴子医師の診断を受けたところ、右発熱やけいれん発作はインフルエンザワクチンの毒性による脳炎症状の疑いがあるとされるに至つた。そこで同医師の指示により、同月九日大月市民病院に入院したが、入院中にも右けいれん状態をたびたび起こし、一時は高熱を発して危篤状態にもなつたが、その後症状が多少おちつき好転したので、検査のため同月一五日、東京医科大学附属病院に入院して急性脳炎と診断され、同月二七日には、一応急性期を過ぎ、病状の進展が考えられなくなつたので退院したものの、前記の通りの脳性麻痺の後遺症状が生じて回復の見込みのない状態となつたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

2  ところで、成立に争いのない甲第一号証の一ないし一〇、証人金谷正明、同堀田鈴子の各証言および原告酒井望本人尋問の結果(第一、二同)によれば、一般的に乳幼児に対するインフルエンザワクチンの予防接種による副反応として発熱を生ずることがあり、まれには重い脳炎症状を起すことが統計上認められること、貴美恵は生後五ケ月余の昭和四四年九月一六日に種痘の接種を受けたが、何らの副反応もなく、予防接種に過敏な反応を生ずるいわゆる特異体質とは認められないし、本件予防接種当日も発育状態良好で食欲もあり、発熱や不機嫌な様子など感冒等にかかつていることを疑わせるような状況もなかつたこと、堀田医師は本件予防接種の三日後の同年一二月八日、貴美恵の発熱が予防接種後余り時間をおかずに生じたことやその後のけいれん発作の程度や急激な症状の進行状況からみて、右けいれん発作は単なる熱性のものではなく脳炎による疑いがあると診断したこと、脳炎は予防接種以外にも様々の原因によつて起りうるものではあるが、未だその原因は科学的に十分解明されていないし、本件の場合には予防接種以外の何らかの原因が存したことが前記の状況からみて認め難いこと、以上の各事実が認められ、これらの事実に、前記認定の貴美恵の発病とその後の症状の経過などをも合わせ考慮すると、本件予防接種が貴美恵の右脳炎およびその後遺症状を生ぜしめたことについては経験則上高度の蓋然性が存し、右両者間には因果関係があると認めるのが相当である。

前記各書証、鑑定結果および前記証人らの各証言中の、右因果関係を積極的に肯定することができない旨の部分は、いずれも厳密な自然科学的推論に基づく証明はできないという趣旨のものであつて、前経験則上の蓋然性についての認定をくつがえすに足るものではない。又、貴美恵の咽頭部の炎症が本件予防注射前から発生していたことや、本件脳炎が右咽頭部の炎症に起因することを認めうる証拠はないので、この事実も右認定をくつがえすに足りるものではない。

3  なお、貴美恵が昭和五一年二月二六日に死亡したことは前記のとおりであり、原告酒井望本人尋問の結果(第一回)によれば、貴美恵は昭和四九年一一月当時、身体は大きくなつてはきたが、脳性麻痺の後遺障害のため、歩くことはできるが右半身が不自由で食事、排泄も自らはできない状態であつたことが認められる。しかしながら、貴美恵の死亡原因についての特段の立証がないから、予防接種後六年以上経過してからの死亡が右予防接種に起因するものと直ちに認めることはできないし、又右脳性麻痺の後遺障害がその原因となつたものと認めるに足る確証はないから、結局本件予防接種は、貴美恵の死亡と因果の関係にあるとは認め難いといわざるを得ない。

しかし、右予防接種が貴美恵の脳性麻痺の原因と認定すべきことは前叙のとおりであるから、次に、右接種についての各被告の責任について検討する。

三責任

1  被告黒田医師について

(一)  〈証拠〉を総合し、弁論の全趣旨を参酌すると、インフルエンザの予防注射においては、発育段階に応じた注射液ワクチンの安全な規定量として、一才未満が0.1CC、一才以上六才未満が0.2CCと定められており、規定量を超えて注射した場合にはなんらかの副作用を生ずる危険が増大するものと予想されること、本件予防接種では被接種者の年令を確認する手段として会場には被接種者の氏名、生年月日、年令等を記入する受付票が備えられており、貴美恵の母親の原告酒井望は係員に右記入事項を申告して貴美恵の生年月日を昭和四四年四月八日、年令を〇才と記入してもらい、右受付票は接種担当の被告黒田医師の手元に届けられていたこと、ところが原告酒井望は、被告黒田医師から、貴美恵に対する接種後に、「この子は一年すぎているね」と質問されたので、貴美恵が生後八ケ月の乳児としては発育状態が平均よりも良好であつたことから、被告黒田医師が貴美恵を一才以上と誤認して注射量を誤つたのではないかとの疑念を抱き、「八ケ月ですが大丈夫ですか」と尋ねたことがあつたこと、原告酒井望はその後貴美恵の発熱とけいれん発作が予防接種によるものでないかとの不安を抱き、同年一二月八日に堀田医師の診察を受けたときにも、同医師に対して前記の接種後の被告黒田医師の不審な発言を話しており、右被告黒田の発言内容は相当強く印象に残つていたこと以上の各事実が認められ、被告黒田の供述中右と牴触する部分は前掲各証拠と対比してにわかに採用し難く、他に右認定を左右しうべき証拠はない。

以上の事実に、前記第二項で判示した各事実、ことに本件接種後の貴美恵の脳炎症状が予防接種以外の原因に起因するものとは認め難いことや、本件接種当時貴美恵には特異体質とか感冒にかかつていたとか通常の規定量の接種によつて重い副反応が生ずるような特別の身体状況にはなかつたことなどの事実、更には本件において上記接種に用いられたワクチンの品質が不良であつたことを認めうべき証拠もないこと等をも考え合わせると、被告黒田医師は、被接種者である貴美恵の年令を確認して0.1CCのワクチンを接種すべき注意義務を怠り、貴美恵の年令を一才以上と誤認して0.2CCのワクチンを接種したものと推認することができる。

(二)  ところで、原告らは、被告黒田医師のその後の措置の不十分をも主張するので案ずるに、前記丙第九号証の一、被告黒田本人尋問の結果および鑑定の結果によれば、原告酒井望は昭和四四年一二月七日午前一〇時すぎころ、貴美恵を被告黒田医師方に連れて行つて診察を受け、予防接種をした同月五日夜からぐずついて熱感があつた旨の説明をしたこと、被告黒田医師は貴美恵を診察したところ、38.8度の発熱で咽頭から扁桃腺にかけてやや発赤、腫張を認めたので、感冒と診断してその注射、投薬をしたこと、被告黒田医師は同日午後四時すぎころ、原告酒井望から貴美恵が同日午後再びけいれん発作を起したとして再度の診療を求められ、貴美恵に浣腸をしたところ、粘液性の消化不良便が出たので感冒兼消化不良症と診断してその治療措置をとつたが、原告酒井望から予防注射が原因ではないかとの質問を受けてその所見は見当らないが、自分が予防注射を担当したのだから信用できなければ大月市民病院等で受診するよう話したこと、被告黒田医師は右初診の際貴美恵が自己の予防接種した乳児であることは知つていたが、接種時の具体的な状況までは記憶していなかつたこと、予防接種の副作用として重い脳炎症状の生ずることは極めてまれな事例に属し、右初診時および再診時の状況だけでは直ちに貴美恵の症状が予防接種の副作用として生じたものと判断することは医師としても困難であつたこと、またたとえ当時の症状が予防接種の副作用によるものと判明していたとしても、これに対する治療は解熱の処置を講じ、消化不良に対処するとともに、けいれん発作が生じたときには坑けいれん剤を処置し、患児を安静にさせる等の対症療法をとる外はなく、特に被告黒田医師のとつた処置と基本的な相違はないことが認められ、右認定を左右しうべき証拠はない。

以上の事実によれば、被告黒田医師が予防接種後に貴美恵の診療を行つた際に、貴美恵の症状が予防接種に起因する脳炎症状であることを予測せず、その治療措置をとらなかつたことが同被告の医師としての注意義務違反であるとの原告らの主張は理由がないし、また叙上のとおり、たとえ被告黒田医師が右診察に際して予防接種を原因と疑つてそれに適応する処置をとつたとしても、その後の貴美恵の症状の経過が異つていたとも認め難いから、被告黒田医師の右診療行為と貴美恵の後遺障害との間に相当因果関係が存すると認めることはできない。

(三)  以上の如く、被告黒田医師については、本件接種当日の行為につき過失が存するところ、同被告は、仮にそうだとしても、本件には国家賠償法が適用されるから、行為者たる同被告個人は責を負わない旨主張するので、この点につき判断する。

〈証拠〉によれば、本件予防接種は、厚生省公衆衛生局長が昭和四四年七月二日付で各都道府県知事宛に送付した、一定の実施要領に基いてインフルエンザ予防特別対策を実施してインフルエンザ流行の未然防止を図りたいので特別の配慮をお願いしたい旨の「昭和四四年度インフルエンザ予防特別対策について」と題する書面による通知により、都道府県を通じて指示された、各市町村を実施主体とするいわゆる勧奨接種であり、被告黒田医師は、実施主体である被告大月市の委嘱を受け、その非常勤の特別職職員として、接種にあたつたことが認められる。

ところで、一般に予防接種は、伝染の虞のある一定の疾病に対し、免疫の効果を得させるため、一定の免疫原を人体に注射又は接種することを言うが、これは、単に被接種者個人の発病の予防に止まらず、そのまん延を予防するためにも行われるものであり(予防接種法一条)、従つて又、多数の地域住民に対し、強制ないしそれに近い方法をもつて予防接種を受けさせなければその目的が達せられないものであり、かつ人体に対し、一種の毒物である免疫原を投入するのであるから、本件予防接種は、勧奨の方法による予防接種であるとはいえ、被接種者にとつては、公権力機関との私的な契約関係によるものとは言い得ず、一定の行政目的の実現を図るための事実上の強制力を持つ公権力機関の活動として、国家賠償法にいう公権力の行使に当ると解するのが相当である。

そうしてみると、本件には国家賠償法が適用されるべきものであるところ、その場合には、因つて生じた損害を賠償すべきものは、同法一条一項により、行為者たる公務員個人ではなく、国又は公共団体と解されるから、本件においても、被告黒田医師個人は損害賠償の責を負わないものというべきである。

2  被告大月市について

本件予防接種は、被告大月市が実施主体となり、その固有の事務として、特別職の地方公務員たる被告黒田医師をして行わしめたものであり、被告黒田医師には接種に際して過失があつたことは前判示のとおりであるから、被告大月市は、国家賠償法一条一項により、本件事故による損害を賠償すべき責任があるというべきである。

3  被告国について

(一)  本件予防接種は予防接種法に基づくものではなく、厚生省衛生局長の行政指導による勧奨接種であり、その実施主体は被告国ではなく、被告大月市であること、被告黒田医師は被告大月市の委嘱を受け、同被告の特別職職員として本件接種を担当したものであることは前記1(三)で判示したとおりであるから、被告黒田医師の接種行為が被告国の公権力の行使に当る公務員としての職務行為に該当するということはできず、従つて被告国は、被告黒田医師の右行為に因つて生じた損害を賠償する責任を負わないものというべきである。

(二)  また、被告黒田医師は被告国の被用者としての地位にあつた者ではないし、被告国の直接又は間接の監督のもとに本件予防接種に従事した者でもないことは前記1(三)の事実によつて明らかであるから、被告国は、被告黒田医師の行為について使用者責任をも負うものではない。

四損害

1  原告ら主張の貴美恵の治療費及び治療に伴う経費計金一〇万円の点については、これを認めるに足りる証拠がない。

2  原告酒井望本人尋問の結果(第一回)および弁論の全趣旨によれば、原告らは、貴美恵の入院中付添看護に当り、退院後も重い脳炎の後遺障害のため健康な乳児に比して一段と慎重を要し、かつ労苦の多い付添看護をなしたことが認められ、その付添費相当の損害は、前記認定の昭和四四年一二月九日から同月二七日までの入院期間一九日については一日当り金一〇〇〇円、退院後昭和五一年二月二六日の死亡時までの二二五二日については一日当り金五〇〇円がそれぞれ相当と認められるため、右の額は結局合計金一一四万五〇〇〇円と認める。

3  貴美恵の逸失利益については、前記認定のとおり、貴美恵は労働することが可能となる年令に達する前に死亡したものであり、かつ、本件予防接種と右死亡との間の因果関係は、前叙のとおり未だこれを認め難いから、結局本損害は認容することができない。

4  前に認定のとおり、貴美恵には本件予防接種により回復不能の脳性麻痺の重度後遺障害が生じたのであるから、右精神的苦痛を慰藉するには金一〇〇〇万円が相当である。

5  前記乙第二号証および原告酒井望本人尋問の結果(第一回)によれば、貴美恵は本件事故による後遺症についての補償として、被告大月市から金二七〇万円の給付を受けたことが認められるから、貴美恵の損害額は、前記2、4の合計金一一一四万五〇〇〇円から、右金二七〇万円を控除した金八四四万五〇〇〇円となる。

6  原告らが貴美恵の損害賠償請求権を均分に相続したことは、当事者間に争いがない。

従つて原告らは、それぞれ金八四四万五〇〇〇円の二分の一の金四二二万二五〇〇円の損害賠償請求権を相続により取得したものである。

7  原告らは、貴美恵の両親として本件接種による愛児の脳性麻痺という不測の出来事に甚大な精神的苦痛を受けたことは推察するに十分であり、原告ら固有の右苦痛はそれぞれ金三〇〇万円をもつて慰藉せられるべきものと認める。

8  本件事案の性質、審理の経過および認容額等に照らし、原告らが本件事故による損害として賠償を求めうべき弁護士費用額は、原告ら各自についてそれぞれ金七〇万円とするのが相当である。

9  よつて、原告らの蒙つた損害の額は、それぞれ、右6ないし8の合計額たる各金七九二万二五〇〇円というべきである。

五結論

以上の次第であるから、原告らの被告大月市に対する請求は、原告らそれぞれについて金七九二万二五〇〇円とこれに対する本件事故発生後である昭和四四年一二月七日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度において理由があるからこれを認容し、被告大月市に対するその余の請求及び被告国、同黒田政喜に対する請求はいずれも理由がないから棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九二条、九三条一項本文を、仮執行の宣言について同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(小谷卓男 山本矩夫 高梨雅夫)

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